師匠シリーズ

師匠シリーズ 握手 後編

師匠シリーズ 握手 後編
「これ? 霊験あらたかな、由緒正しい、呪いの面だよ。持ち主が次々死んだっていういわくつきの」

真夜中の教育学部の学部棟の屋上で『妖精』と出会った、その次の日だ。
僕は昼間にその学部棟の下に立って、空を見上げていた。
昨日の夜、あの空中に、この世のものではないものが浮かんでいたのだ。人の体のツギハギでできたような不気味ななにかが、大きくなったり、小さくなったりしながら、あそこに。
ぞわっ、と首筋が寒くなる。
これまでに望まなくとも見てしまった幽霊たち。かぼそく、はかないそれらとは異質な、悪意を持った存在だった、あれは。
言われるままに目を閉じ、次に目を開いたときには、それも、彼女も、消えたようにいなくなっていた。あれは、いったいなんだったのか。
考えても答えは出ない。僕はため息をついて立ち去ろうとした。そのとき、すぐ近くで、学生たちが騒いでいるのが目に入った。
「これ見て」
そう言って芝生を指さしている。学部棟のすぐ下だ。
僕も近くに寄ってみると、血の跡のようなものが芝生についていた。バレーボールくらいの大きさだ。
「なにこれ、血?」
「キモッ」
そう言って笑ってから、彼らは去っていった。彼らが学部棟に入っていくのを見届けてから、僕はその芝生の前にしゃがみこんだ。
教育学部の学生が、いま気づいた。ということは、この血の跡のようなものは、新しくついたものだ。たとえば、昨日の夜に。
そっと触ると、芝からパラパラと赤黒い粉が落ちた。僕はしゃがんだまま、学部棟の屋上を見上げた。
昨日、僕はあそこにいた。
なにか、不吉な符合を感じて、僕は身震いをした。そしてその視界の端に、黒いものの影を見た。
またあれだ。立ち上がってそちらを見ると、もうなにもいない。
なんなのだ。僕は苛立って、芝生を強く踏みしめた。

さらにその次の日、僕は学食でトレイを持ってウロウロしていた。いつもながらやけに混んでいて嫌になる。ずっとこんな調子ではないと信じたい。まだ学食以外の昼食場所を見つけていない新入生が多いせいなのだろう。そしてきっと一部の学生はだんだん授業に出なくなり、ここもすいている日がくる。きっとそうだ。
まさか、自分が授業に出なくなる側になるとは思っていなかった僕は、まだ見ぬ未来に希望を抱きながら、あいている席を探していた。
すると、食事中の人々のなかに、見知った顔を発見した。
妖精だ。妖精が、黒い髑髏のスカジャンを着て、カレーを食べている。
僕はその前の席があいているのを見て、急いで近寄ってトレイをおろした。
「おとといはどうも」
妖精はカレーを食べながら文庫本を読んでいた。その本から視線をはずして、ちらりとこちらを見る。
「どこかで見たような幽霊だな」
「幽霊じゃないですよ。僕です、ほら、夜に教育学部の学部棟で」
「わかってる」
彼女は文庫本を置いた。新潮文庫の『ハムレット』だった。
「どうして逃げたんですか」
「逃げた?」
「僕を置いて逃げたじゃないですか」
「そりゃあ……」
彼女は鼻で笑うような仕草のあと、水を飲んでから言った。
「悪かったな」
「あれはなんなんですか」
「お化けだよ、お化け」
「あんなのが大学にいて、おかしいじゃないですか」
しげしげと彼女は僕の顔を見た。
「おまえ、なにをそんなに苛立ってんだ」
「い、苛立ってなんか」
「お前さあ、おとといの夜、なんで大学に来てたんだ」
「それは……」
「見に来てたんだろ。例の黒いお化けを。あの逃げるやつ」
図星だった。
「見たいのか、見たくないのか、どっちなんだよ」
僕は核心を突かれて、ハッとした。ずっと抱いていた葛藤を見透かされたのだ。
『目を閉じないで』
ゆらりと、記憶のかなたでそんな言葉が揺れる。僕は言葉を搾り出した。
「……あの、影みたいなのは、なんなんですか」
「さあな」
彼女ははぐらかすように笑う。
「かわりに、教えてやろうか」
「かわりって、なんですか」
「あの黒いやつを見る方法を」
「そんな、どうやって」
「ちょっと待て」
彼女は残ったカレーにスプーンを突っ込み、片付けた。ティッシュで口を拭いてから、僕に向き直る。
「あれはな、自分の背中みたいなもんだ。見ようとしても、その動きに反応して回り込んで逃げちまう。見ようとするその意識を、読まれるんだよ」
彼女はそう言って、自分の背中を見ようとするようにクルクルと首をめぐらせた。
「そんなもの、どうやって見るんですか」
「見ようとしなければいい」
「禅問答ですか」
「簡単なことだよ。電話してるときに、手元にペンと紙があったら、ついついラクガキしちゃうことあるだろ。無意識に。なにを書いたか、自分でも見返すまでわからなかったりする。もちろん実際には完全な無意識じゃない、意識の優先度が低いってことだ。そんなふうに、意識の階層化を図ればいい」
「階層化?」
「こうやって、本を読みながらカレーを食うだろ」
彼女はハムレットの文庫本を開いた。
「『ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬできごとがあるのだ』ってな。その分、カレーはほとんど無意識に食ってる。でもこれくらいじゃまだ足りない。服にカレーがつかないように、多少の意識は振り分けられてる。そこで、本の文字を目で追いながら、私はさらに頭のなかでポアンカレ予想のことを考える。位相幾何学と、ケーニヒスベルクの七つの橋の問題を考える。そうすると、どうなると思う。みごとカレーが服についてると。こういうわけだ」
そう言って彼女はおおげさにスカジャンの胸元をぬぐう真似をした。
「あとはお前しだいだ。じゃあな」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「私はしばらくのあいだ、夜に、大学の構内をうろついてるよ」
また会うにはどうしたらいいか、訊こうとした、その先まわりをされていた。
「おまえ、伊勢うどんとか、好きなのか」
そう言って妖精は、僕のトレイを指さして笑った。器のなかで、大盛りのうどんが汁を吸ってすっかりふやけていた。
彼女は黒い帽子を被り、席を立った。去っていくそのうしろ姿を見ながら、僕は彼女と少し打ち解けた会話ができたことに、不思議な喜びを抱いていた。

それから3日後、僕は夜の大学構内を歩いていた。
暗すぎてもだめだ。街灯がついている場所を中心に練り歩く。心は穏やかだった。練習をしてきたからだ。
歩きながら、心のなかではくりかえし円周率を暗唱していた。60桁までしか覚えていなかったのを、100桁まで覚えなおしてこの日に備えたのだ。
3.14159265358979323846264338327950288……。
体のなかを数字のリズムで満たして、歩く。
そしてそのリズムがなかば無意識に生まれていくなかで、僕はルパン3世カリオストロの城の名場面を頭のなかで再生する。たとえば、ルパンと次元のスパゲッティバトルのやりとりを。
あの映画は死ぬほど観た。だが、頭のなかでは無声映画だ。円周率がバックグラウンドで続いていた。音を重ねるのは難しい。だが、映像の再現は可能だった。
伯爵の犬を見送ったあと、2人がミートボールスパゲッィティを取り合い、次元が見事に大半を巻き取ってしまう。そんなシーンを。
歩きながらでも、ここまではわりと簡単だ。僕はもう一段階深層意識を掘り下げた。円周率とカリオストロ、それと重なりながら重ならない、さらに『下』で、僕は小学校のころ、田舎の親戚のうちで過ごした夏を思い出していた。先生との日々のことを。いま僕がこうしてわけのわからないことをしている、その呪いを生み出した日々をだ。
音と、映像と、記憶のなかの思いと、それらを一つの体のなかに再生しながら、僕は歩いていた。
街灯に照らされる生協の白い建物のそばで、黒いなにかが視界の端に入っていることも、もうわかっている。
『それが視界に入ったら近づく』
意識はしない。ただ、はじめからそう決めていたから、ルールに従って足が自然に動く。
頭のなかは音と映像と思い出でいっぱいだ。
3.14159265358979……。
ルパンが花を差し出す。
黒いものは逃げない。
足が勝手に動く。
意識はしない。
先生、僕は。
それが今。
目前に。
いる。
「…………」
静かに呼吸をしながら、僕は表情を変えずに、その黒いものの前に立っていた。うしろには生協の建物の壁。
僕は視界に入ったもののことを考えない。
頭のなかの三重奏は続いている。
ただそこにある。
黒いものは平面だった。黒い影のなかに、顔のような絵が見える。まるで交通安全のために道端に置かれている、板できた男の子のようだ。
それが、ノイズのようなブブブというブレを伴いながら、僕のまえに立っている。
その古いブラウン管テレビのようなブレが収まっていき、厚みのない平面状の顔が、だんだんとはっきりしてくる。僕はそれをただ突っ立って、無関心に見ている。夜のキャンパスで、得体の知れないものと向かい合って。
意識の階層化の深度が、僕の危機意識を奪っていた。
ブブブブブ……。
黒いものが小刻みに揺れながら、その絵でできた顔を明かそうとしている。
ふいに、どこからかともなく声が聞こえた。
「お前、影みたいなの、って言ったな。そのとおりだよ」
妖精……彼女の声だ。
「影は、光源と対象物の延長線上にできる。自分の影を見つめているとき、光源はどこにある」
その言葉を聴いた瞬間、僕の心に恐怖心が突然よみがえった。 押さえ込まれていた冷たい汗が、額にどっと湧き出る。
ドッドッドッ……。
心臓が激しく脈打ちはじめる。
正面にはうっすらと顔のようなものが見えている。黒い板のなかのブラウン管の歪む走査線の奥に、僕に似た顔が。
僕は自分のまうしろに、背中の向こうに、なにかがいるのを感じている。それも、すぐそばに。
それと、僕の延長線上に、影を作っている、その本体が、うしろに、いる。
もう意識の階層化なんて吹っ飛んでいる。なのに、面前の黒いものは逃げない。僕に対する、児戯に似た悪意がにじみ出ていた。
やばい。
それでも、足が動かなかった。
が……。
ケェーッ。
突然、甲高い悲鳴のような音がした。その瞬間、僕の金縛りは解けた。
バンッ、と弾けるように、背後の気配と、目の前の黒いものが消えうせた。
「うわっ」
僕は飛び上がって思わず横に倒れこんだ。仰向けになって上半身を起こした僕の前に、白い仮面をつけた人間が立って、僕を見おろしている。数日前に屋上で見た仮面だ。
街頭の淡い明かりに浮かび上がるその仮面は、能面の『姫』の面だった。彼女は、冷たく、青ざめたその面を取った。
「お、やってるやってる、と思って遠くからじっと見てたんだけど。本当にあいつを捕まえるとは思わなかった」
妖精が左手で姫の面を顔の横に掲げたまま、言う。
「前に、お前みたいなやつが一番危ないって言ったけど、これでわかったろ。興味本位で追ってると、恐ろしいことになる。普段は害がなくても、突然変貌するやつもいるんだ」
「そ、その仮面は?」
僕はへたり込んだまま指さした。
「これ? 霊験あらたかな、由緒正しい、呪いの面だよ。持ち主が次々死んだっていういわくつきの」
あっけらかんと、そんなことを言う。
「もっとやばい、祟り神級の面も持ってんだけど、よっぽどのやつじゃない限り、これで十分だろ」
「あの、悲鳴は?」
「猿叫(えんきょう)だよ。この面はあれで呪いをかけるんだ」
「取り返したんですか」
「ああ、あのときか。高鬼のやつにふいうちで取られたから、あせったよ。でも取り返して、次の日にやっつけてやった」
彼女の口から聴く言葉は、信じられないことばかりだ。けれど、僕にはなぜかそれらが、すんなりと胸に落ちていくのだった。
この人は、僕の抱えている葛藤を、乗り越えた場所にいるのだ。いや、もしかして、はじめからそんな普通の人間などとは別の場所に生まれた存在なのかも知れない。
「でもまあ、お前、あんがい面白いやつだな。気に入ったよ。カンフーの師匠がわけのわからない特訓を言いつけても、文句言いながら真面目にやるタイプだな」
バカにしたような口調だったが、キャンパスではじめて会ったときのようなつっけんどんな態度ではなかった。仲間として認めてくれたような、そんな気がした。
『あなたは、だれにも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。それはきっとあなたの人生を惑わせる。それでもどうか目を閉じないで』
優しく、はかない声が、深層意識の奥底から再生される。
僕を縛り付けてきた呪いが、呪いではなくなる日がくるのだろうか。この人について行けば。
「僕も、この世のものではないなにかに、目を閉じないで暮らす。そんな生き方ができるでしょうか」
気がつくとそんな言葉が口から流れ出ていた。地面にへたりこんだままの僕に、彼女は「ふうん」と小首をかしげた。そして、
「To be,or not to be.That is the question」
そんなことを言って、僕に右手を差し出した。
「決めるのはお前だろ」
僕は差し出されたその手を握った。力強い握手だった。
そのままぐいっ、と引き起こされる。立ち上がった僕は、握ったままの手を離さず、彼女を見つめる。
じわり、と寒気がした。
いま聞いた言葉に覚えた違和感が、時間差でやってきた。
『トゥービー、オア、ノット・トゥービー。ザット、イズ、ザ、クエスチョン』
なすべきか、なさざるべきか。それが問題だ。
彼女が先日、生協の食堂で読んでいたハムレットの名台詞だ。
それをそらんじたのだと思った。けれど、僕の耳はたしかに、違和感を察知していた。妙に発音が変だと思った箇所があったのだ。その言葉の意味がわかった瞬間に、違和感は寒気のする畏怖に変わった。
『テーベー、オア、ノット・テーベー。ザット、イズ、ザ、クエスチョン』
彼女はそう言ったのだ。
僕は握った手のひらに汗をかいている。
テーベー。結核の、隠語。
なぜ、それを。
目の前の女性は、自分のしたイタズラをたしかめるような、そんな笑顔を僕に向けている。
『目を閉じないで』
声が聞こえた気がした。
けれどそれは、階層化された深層意識のかなたに、たゆたう幻のはずだった。
「浦井加奈子だ」
彼女は、手を握ったままそう言った。
僕も彼女に対する畏怖を抱いたまま、名前を名乗った。
そのとき、僕の大学生活の道筋が決まったのだ。いや、控えめに言って、人生の、それが。
彼女の手は暖かく、手のひら越しに鼓動が聞こえた気がした。
その握手の暖かさを、僕は、それからずっと覚えている。

気がつくと、雨が降っていた。霧雨のような細い雨が。夜のキャンパスに。
だがそれは僕らだけが見ている幻だった。僕は暗い空を見上げて、目を細める。この雨は夢のなかにある。
「また降ってますね」
「すぐにやむよ」
彼女のつれてきた不思議な世界に、僕は立っている。
「おろろ」
突然、彼女の手のなかで面が2つに割れて、地面に落ちた。握手をしたまま、僕らは見つめあう。
「さっきの黒いやつ、よっぽどのやつだったらしい」
こわばった顔でそう言った。
「危なかったな」
「な、なんですかそれ」
しばらく顔を見合わせたあとで僕らは、大きな声で笑った。

〈完〉

-師匠シリーズ
-, , , , ,

Copyright© シャカニセッポウ , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.